読解力

「◯◯力」なる言葉は確かに多い。

変化が激しい時代を生き抜く上では、さまざまな力が必要になっているのだろう。


「読解力」といえば、どのようなイメージを抱くだろうか。

硬質な文章から主題を読み取る力、主人公の言動から心の機微を読み取る力、複数のデータから共通項を読み取る力...


読解力について考えるとき、誰しも疑問に思うことがある。

「正しい答えは複数あるのでは?」

なるほど、読み手が十人いれば、十通りの読み解き方、解釈がある。

読み手が持つ知識や情報の量や質によって、読み解き方は変わってくる。

「文学作品の読解」となると、もうお手上げだ。


安部公房の「赤い繭」という作品をご存知だろうか。

自分の家を探し求める「おれ」が、最終的には「繭」になるという話だ。

彼の作品には非現実的な要素が多く、「理解」しようとすると、余計に理解が妨げられる。

高校の現代文の教科書に採録されていることが多く、寓意小説という括りで登場する。


受験に縛られない授業をするには今しかないと思い、高3の授業で今回取り上げた。


文学作品の「鑑賞」と「読解」は何が違うのか。

入試における読解は、多くの前提があってこそ成り立っている。


言い換えれば、主題者(大学)の意図を読み取ることで、読解がうまくいく。


文章(作者)→出題者→受験生


作者の考えなんて、作者しか知り得ない。


入試というカテゴリーで求められる「読解力」


高校生のうちに身に付けておきたい「読解力」とは?





「適応力」とは何か?

「人類は環境に適応することで進化してきた」


「進化」と言えるのは、現代を生きる我々人間が、進化以前の状態を「劣ったもの」とみなしているからである。


狩猟採集社会や農耕社会を経て、今の人類がある。

貴族文化の平安時代、武士の台頭、鎌倉時代

高校で習う古典は、このあたりのお話が中心だ。

通い婚やら出家遁世やら、現代っ子には理解しがたい文化。

中古〜中世になると、現代との比較では捉え難い何かが見えてくる。

和歌で恋心を伝えていた彼らと、SNSで想いを吐露する我々の間に、果たして違いはあるのだろうか。


そんな話題はさておき

教育現場でも「適応」という言葉はよく使われる。

殊に、適応を強制することに違和感を覚える。

「社会に出る」ことを見据えて指導するのが、高等学校だ。

自分の思い通りにはいかない。要求されたレベルに合わせる必要がある。好き嫌いではなく、考え方を変えていく。ある程度は諦めが必要である。


諦め?


諦めて環境に合わせることが適応ならば、適応という言葉にポジティブな意味を持たせることが難しくなる。


現状では解決できない困難に向き合って初めて、適応力が試されるはずだ。

困難の乗り越え方は、十人十色。自らが考え出した方法で道を切り拓く。

そんな経験の積み重ねが、適応だろう。


毎日毎日、悶々とする。

明日は金曜日。

濃いめのハイボールとローソンのからあげくんで優勝。



つれづれなるままに

つれづれなるままに

日暮し 硯にむかひて

心にうつりゆく よしなしごとを

そこはかとなく 書きつくれば

あやしうこそ ものぐるほしけれ


職業柄、目的のある文章を添削する機会が多くある。

目的が明確でも、何を書けばいいのかと悩む声がよく上がる。


「君は、なぜその大学に進学したいの?」


声に出すと、拙いが思いは伝わってくる。


「話すこと」と「書くこと」は、どちらも自己表現の手段になり得るが、非言語の要素が多い「話すこと」の方が、発信者の意図や思いは伝わりやすいようだ。


「相手の表情が見えないから、SNSでのやりとりは苦手」


こんな声も耳にする。


それでは、文字以外の情報が削ぎ落とされた「文章」を作り上げることには、どんな意義があるのだろう。

「話すこと」に比べると「書くこと」は、苦しい。自分の思考を言語化する過程は、いつまで経っても、苦しい。


「苦しんだ先に、喜びがある」

さまざまな場面で多用される決まり文句。

経験上、頷かざるを得ない言葉か。


目的がないまま書く文章は、気楽でいいかも。

兼好法師にインタビューしてみよう。