つれづれなるままに
つれづれなるままに
日暮し 硯にむかひて
心にうつりゆく よしなしごとを
そこはかとなく 書きつくれば
あやしうこそ ものぐるほしけれ
職業柄、目的のある文章を添削する機会が多くある。
目的が明確でも、何を書けばいいのかと悩む声がよく上がる。
「君は、なぜその大学に進学したいの?」
声に出すと、拙いが思いは伝わってくる。
「話すこと」と「書くこと」は、どちらも自己表現の手段になり得るが、非言語の要素が多い「話すこと」の方が、発信者の意図や思いは伝わりやすいようだ。
「相手の表情が見えないから、SNSでのやりとりは苦手」
こんな声も耳にする。
それでは、文字以外の情報が削ぎ落とされた「文章」を作り上げることには、どんな意義があるのだろう。
「話すこと」に比べると「書くこと」は、苦しい。自分の思考を言語化する過程は、いつまで経っても、苦しい。
「苦しんだ先に、喜びがある」
さまざまな場面で多用される決まり文句。
経験上、頷かざるを得ない言葉か。
目的がないまま書く文章は、気楽でいいかも。
兼好法師にインタビューしてみよう。